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まず想像の中の自分があって、それと自分自身との乖離を埋めるために僕は文章を書き始めたのだった。
自分以外のものを言葉で埋めて自分自身を浮き彫りにしたかった。が、いくら言葉を尽くしても何か絶対に埋まらない自分の周りの死角のようなものがあると気付いてしまった。
だから文章を書くのをやめた。というのは嘘で、ほんとはただどうでもよくなってしまったからだ。
遡ること約5ヶ月前、地下のクラブで熱狂的なビートが流れていたあの日、僕がMさんを見つけて話かけた瞬間、Mさんは獣を見るような目で僕を見て恐怖の表情を浮かべ体を硬直させていた。さながらマグロのようだった。大間の。
ビートが鳴り止んだ真っ暗な部屋の中、スポットライトに照らされた、大間のマグロと僕。
というのは後から僕が現実から逃れるために妄想に耽った中のMさんの姿で、実際はその場には只々嫌悪感の余り動けないMさんの姿があっただけだ。
しかし妄想の中でのその光景の不気味な無意味さ。僕はなぜかそれに魅かれた。その妄想の中でMさんのことはどうでもよくなった。
ミクロな目で物事を見つめていくと元々の意味が反転して無意味になる。そこに快楽を伴うカタルシスがある。
僕はMさんが動けない様という細部を見つめてそれを硬直したマグロに変換することで、Mさんの存在を無意味化した。ミクロのマグロ。大間の。
その日以来、現実を直視しない手段として僕は無意味な事のカタルシスに浸り続けた。
ハンバーグを焼かずにひたすらこね、挙げ句の果てに部屋に投げ散らかしたり、浴場で陰茎を湯船に浮かべて薄ら笑いを浮かべたり、猿のような奇声をあげて猿股で青梅街道を爆走したり、して、僕はとても気持ちよかった。
が、それと同時にそれを批判的な目で見る自分もいた。現実から完全に逃避するというのは難しい。次第に批判的な自分が猿のような自分より支配的になっていったので僕はもうそういった無意味な事を止めた。
一度無意味の快楽的な世界から抜け出してみると、厳然たる現実がしっかりとそこにある、というのが以前より明瞭に認識された。
厳然とした現実は本当に厳然としていて、見ようとすればするほど厳然だ。泣きそうなぐらいに。僕の身近な現実も世の中の現実も、以前よりさらにひどい現実になっていた。
しかしひどい現実に対して具体的に何かしようという意識はまだ僕には働かない。
だからとりあえずまた文章を書いてみることにした。現実と自分自身を測定する手段として。
具体的な行動は何も出来なくても、僕はとりあえず現実を客観的に認識してみる。身近な事から。
家賃を12ヶ月滞納している事、今現在職がない事、貯金が底を尽きそうな事、もうすぐ30になる事、それなのにまだ母親から仕送りを貰っている事。
Mさんの、僕を獣を見るような、憎しみさえこもったような目を明瞭に思い出しながら。
マクロの目で。